内在的多様性批判: ポストモダン人類学から存在論的転回へ

内在的多様性批判: ポストモダン人類学から存在論的転回へ

  • 作者:久保 明教
  • 作品社

Amazon

久保明教さんの本は全て読んできたが、最新刊である本書『内在的多様性批判』は読まなくてよいかもしれない、と思っていた。いままでの著作にも増して、プロの人類学者に向けて書かれた本のように見えたからだ。副題に「ポストモダン人類学から存在論的転回へ」とあるように、本書は20世紀、そしてとくに20世紀終盤から21世紀にかけて人類学(anthropology)という学問がどのように自らを捉え直してきたか、その学説史的な展開を辿る専門書である。門外漢としては、そもそも「人類学入門」のようなものを経たうえでないと読んでも仕方がないのではないかと思えた。

しかし、一応買ってはみた。そして、やはり読んでみた。著者のこれまでの本がそうであったように、本書もまた、人類学の「外」の読者に開かれ、学問的準備がない読者の問題意識に引っかかるように書かれていた。この本に関しては、「多様性」がその引っ掛かり、つまり分野外に開かれたキーワードとなっている。著者は本書で、人類学という学問そのものを、多様性にとことん向き合ってきた学問として提示する。人類学とは「経験の多様性に内在しながらその多様性を捉える枠組を産出する実践的な思考」(p.303)、つまり「内在的多様性批判」の学なのだという。

これはどういうことなのだろうか。本書のメインパートでは、ロイ・ワグナー、マリリン・ストラザーン、ブリュノ・ラトゥール、フィリップ・デスコラ、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ、アルフレッド・ジェルといった20世紀後半以降の人類学を代表する学者が取り上げられる。そして、2010年台に「存在論的転回」という運動としてまとめ上げられた人類学の成り行きについて、著者は独自の「学説史的読解として」の「やりなおし」(p.271)を提案している。しかし、その辺りをブログ筆者に要約する力はない。ここでは、そうした専門的な部分を全てすっ飛ばして、

  • 人類学が内在的多様性批判の学であるとはどういうことなのか
  • それが人類学に従事しない我々にとってどんな意味があるのか

について、自分の現時点での理解をもとにメモにしていきたい。

***

まず、人類学が「多様性」を扱う学問であったというのはわかりやすい。自分が生まれ育ったコミュニティを離れ、異郷の地に出向けば自分とは全く異なる人々がいる。しかし、皆同じ「人類」であるからには、そこには共通性もあるはずだ。文化や社会の「多様性」を記述しながら、人類の普遍性に目を向けるーーこうした「社会/文化人類学」のイメージは、レヴィ=ストロースの「構造主義」などについて聞き齧ったことのある多くの人が持つものだろうし、自分もその一人だった。

しかし、「自然種としては単一の「ヒト」が多様な文化/社会をもった「人間」となる普遍的なあり方を解明できる」という「一般的な人類学のイメージ」(p.51)が、人類学の中では早々に崩れ去ったのだという。

世界各地の文化/社会の民族学誌的調査を通して人類の普遍を解明するという20世紀人類学の基本フォーマットは、1980年代のポストモダン人類学までの人類学的思考の軌跡において学問内部の共通了解としての地位を失うに至った p.250

多様性を扱うには、多様なものを並べる軸、何らかの基準が必要になる。多様性を語るために人類学者たちが使う「文化」「社会」あるいはその普遍的な背景としての「自然」という概念そのものが、人類学者たちの埋め込まれたローカルな場からでてきたものであり、人類学者がフィールドワークの対象となる人々を記述する時に作り上げているという側面があることへの気づきだ。

***

(なお、ここで「自然」に関する見方を多様性の側に入れる思考は、私の体感上、「理系」を自認する90%以上の人々が忌避するものではないかと思っている。そのことについて、著者の前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』の読書メモにおいて書いた。しかし、必ずしもすべての「理系」がそうではなく、むしろ最前線で自然科学の探究を行う研究者のなかには、ラトゥールのような考え方に親和性をもつのだというのが、理論物理学者の鹿野豊さんと久保明教さんとの対話で、私が驚きとともに学んだことだった。)

***

このように、人類学は我々が普段多様性について語るときよりも1段階ドラスティックな多様性に挑んできたと言える。それはつまり、多様性を語る基準自体の多様性である。そして、人類学の「存在論的転回」(この読書メモではそれが何かを説明しない)とまとめ上げられた展開が示しているのは、多様性を語る基準を一つに収束させる唯一の普遍的な視点をつくることの無謀さである。私たちは、多様性の中からしか多様性を見ることができない。しかし、そのことについて「批判」的に思考することができる。

「何らかの共通項によって多様性を統制すべきだとする規範的な発想をとらなければ私たちはいかに思考することができるのか?」という序論で提示した問いに対して、内在的多様性批判の立場からは、まずもって多様性を捉える枠組(ないし基準)自体の多様性、多様性の多様性に目を向けることが提案される。p.305 (太字は引用者)

それでは、内在的多様性批判の学としての人類学の道行きから、人類学の「外」にいる私たちが学べることがあるとしたら何なのだろうか。

一つは、本書のそこここに登場する、技術への向き合い方、とりわけAIやロボットについて考えるときに、多様性に内在していることを意識することが、ある種の思考の隘路から抜けだす道筋になる予感がある。AIやロボットは果たして人間と同じステータスをもつものなのかというのは、今多くの現代人にとってリアルな問いになっていると思うが、この問いの扱いにくさそのものが、自分たちが埋め込まれている(たとえば自然主義的な)ものの見方によって生じている可能性がある。「内在的多様性批判」は、そのことに気づき、AIについて別の仕方で語る方法を考えることを可能にしてくれるかもしれないし、またAI自体が現代の人類学の対象にもなる。これは主に『機械カニバリズム』で扱われているテーマだが、本書を読んでなぜ『機械カニバリズム』がどのような意味で人類学なのかが、本書を読んだことで少しわかった気がする。

しかし、AIにせよ何にせよ、異なるものの見方の可能性に気づき、新しい視点を取り入れればよい、といって済む話ではない。その「ものの見方の多様性」を見る私自身がある一つの見方に内在しており、ものの見方を俯瞰したり、自由に着脱したりできるものではないというのが、人類学が過去数十年の歴史の中で導いてきた結論だからだ。

ではどうすればいいのか? 倫理にせよ価値観にせよ、この世界が何がどのようにあるのかという存在論にせよ、確たることは何も言えないということになるのか? あるいは一つの視点にとどまって、私はこれと居直って、その中で考え続けるしかないのか?

本書の最後で、著者から以下の言葉が届く。

普遍的な図式化が可能にする世界を外側から俯瞰できる視点の心地よさは、彼我の部分的連接に伴う鋭い通約不可能性の内側に閉じ込められた息苦しさとは対照的であり、部分的連接における自己の視界が根底から覆されていくことの興奮は、普遍的図式化における普遍的ではあるがゆえの主張の曖昧さに伴う退屈さとは対照的である。内在的多様性批判は、このうちどちらか一方に思考を定位させない立場をとる。p.306(太字は引用者)

視界が開けない「息苦しさ」にも、多様性を見る視点を一つに固定する「退屈さ」にも「思考を定位させない」で考える方法があるということ。そのことを、人類学の学説史から本書が伝えてくれているのだと思った。そのことが、「多様性をめぐる私たちの思考の可動域を広げる試み」(p.15)なのだと。

この世界は多様であり、多様であるべきだ。このように言えば否定すべきことは何もないように思えるだろう。だが、それはこの世界がバラバラであり矛盾や対立に満ちているということに他ならない、と言いかえれば、とたんに雲行きがあやしくなる。バラバラな世界をまとめてくれる客観的な知識や倫理的な基準が欲しくなるし、そうした多様性に外在する共通項が存在する限りにおいて多様性を肯定できるように思えてくる。私はそのような発想を否定するつもりはない。だが、互いに噛みあわない枠組に依拠する諸存在が互いにすれ違いながらも関わりあう営みを捉えうる手立てを練ることもまた必要ではないだろうか。本書で探求されるのは、私たちが生きるこのバラバラな世界をバラバラなままつなぐための基礎となりうる思考の道筋であり、その困難とその可能性である。 p.19