第4回:理解考からみたAIスロップ問題

本連載「AIと生きる時代の〈理解〉考」は、生成AIの登場により人間だけが理解の主体ではなくなったように思える今、改めて理解とは何か、私たちは何をどう理解して生きていけばよいのかを考えるブログ連載です。本記事はその第4回です1。

第3回はこちら⇩

【AIと生きる時代の〈理解〉考】第3回:理解の作業モデルをつくる

【第4回目次】

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前回は、理解に関する筆者なりの理解を示しました。以降は、その理解のモデルを使って、何がいえるようになるのかを考えます。今回は、AIスロップという題材を取り上げます。

前回の振りかえり:理解の三項連動モデル

前回、私は自分なりの理解のモデルを作り、それを理解の三項連動モデルと呼んだ。三項とは、1)理解の対象、対象に関して理解の主体が頭の中に持つ2)内部モデル、そしてその内部モデルを外部に表現した3)外的表象の三つである。

再掲:理解の三項連動モデル

私たちが何かを理解しているとき、その対象についての内部モデルを持つ。今から私は出勤して、社内会議を主催する。この会議をうまく回すには、会議の目的や、参加者の事前知識などを把握し、会議の進行を頭の中で事前に予習する必要がある。どんなに準備しても、予想外のことは起こるだろう。それでも、事前のシミュレーションの精度によって、その成否は大きく変わってくる。議題Aと議題Bの順番を逆にしたらどうなるか、事前の根回しをしなかったらどうなるか。アジェンダや出席者のことを単に知っているだけではなく、反実仮想的なシナリオをいくつも想定できなければならない。そうしたシミュレーションができるとき、私はこの後の会議についての内部モデルを持つ。

さらに私は、その内部モデルを、会議のアジェンダなどとしてメモに書き出すことができる。内部モデルを文字や絵で表現したものを、外的表象と呼んだ。もし私が会議運営を完璧にこなすことができたら、私は内部モデルを持っていることになる。しかし、それをいかなるメモにも図にも書き表せないとしたら、それは「天性の能力」であっても「理解」ではない、とここでは考える。私が会議について理解していると言えるためには、その内部モデルを持つことだけでなく、それが外的表象と連動した状態になければならない。

私たちが関わるあらゆる仕事や作業に、このような理解が関わっている。週末に私が簡単な木工作をするとする。ホームセンターに行って木材を買ってきて、それをカットしてネジで組み立てる。頭の中の内部モデルと連結した外的表象としての設計図があるとき、私は家具の作り方を「理解」している。理解しているからこそ、初めて作る場合でも完成させることができる。この場合も、もし私が天性の勘で設計図も書かずに家具を組み立てることができ、かつ設計図を書けと言われても書くことができないなら、私は家具作りを「理解」しているとは言えない。このように、三項モデルは「本人も説明できないけど、うまくできる状況」を理解というカテゴリーから除外する。

以上が、前回提示した理解のモデルだ。

今回はこのモデルを実際に動かしていく。題材として、AIスロップを取り上げたい。生成AIが普及して3、4年が経った今、空疎なAI生成物であるAIスロップの問題が顕在化している。

理解考の立場からみて、AIスロップ問題とは何か。結論を先回りして言うならば、AIスロップ現象(の少なくとも一部)は、理解の三項のうち内部モデルと外的表象の連動がほどけた状態として理解できる。

AIスロップとは何か

AIスロップとは、AIによって生成された、一見まともだが質が伴わないコンテンツを指す。今日、X(旧twitter)やブログサービスを開ければ、明らかにAIが書いた文章が溢れている。多くの職場で「若手がAIで生成した企画書を平気でそのまま上げてくる」といった嘆きが聞かれるようになった。

2025年末、アメリカの辞書出版社メリアム・ウェブスターはWord of the Yearに “slop” を選び、次のように説明した2。

We define slop as “digital content of low quality that is produced usually in quantity by means of artificial intelligence”(私たちは「スロップ」を、質の低いデジタルコンテンツで、大抵は人工知能によって量産されるもの、と定義する。)

筆者は2023年初めに、こうした生成AIによる情報汚染をスペースデブリ(宇宙ゴミ)になぞらえて「AI生成デブリ」と呼んでみた。しかし、その後、この問題はAIスロップ、つまり「AI生ごみ」と呼ばれるようになった。「デブリ」は衝突しなければ害はないが、「生ごみ」は近くにあるだけで腐臭を放つ、より厄介な存在かもしれない。

今、これを書いている時点で、AIスロップ問題は全盛期を迎えているように思える。SNSやブログサイトには、いよいよAIで書かれたとしか思えない長文があふれるようになってきた。仕事でも、送られてくる企画書や電子メールがかなりの部分「AIくさい」内容であることも増えた。厄介なのは、生成した人から「これすごいから読んでみて」と送られてきたものが、送り付けられる人にとっては「そんなもの私に読ませるな」となりがちな点だ。どうやら、AI生成物には、生成した本人にとって出来がよく見積もられる傾向がある3。

しかし、読み手にとってはそれは迷惑でしかない。本を後半まで読んだところで「この本はAIで下書きされました」と開示されたときに、どこか裏切られた感がある。あるいは、見るからにAI製のパワーポイントスライドは、なぜかじっくり見る気が失せる。文章から「AIくささ」を消すための指南書まで出ている4。しかし、なぜ「AIらしさ」を私たちはそんなに嫌うのだろうか。一つの答えは、「そこに理解が介在していないから」というものだろう。

これから、AIスロップの問題を理解の問題として考えていくのだが、もちろん理解とは関係ないAIスロップもある。AI生成の絵画や音楽など、理解というよりは芸術的価値に関わるスロップはその典型だ。これらを美的AIスロップ(aesthetic AI slop)と呼んで、認識的AIスロップ(epistemic AI slop)と区別するのは有益かもしれない5。後者は、プレゼン資料やブログ記事など、相手に自分の理解を伝えることを目的にした表現媒体でみられるAIスロップのことだ。以下ではもっぱら、認識的AIスロップについて考える。

AI生成物はいつスロップになるのか

AI生成物は、どのような条件を満たせばAIスロップになるのだろうか。AIが生成したものはすべてスロップなのだろうか。

人が書いたものと、AIが書いたものに本質的な区別を設ける発想はありうる。たとえば、大学生向けの勉強・研究の指南書として書かれた『アカデミック・スキルズ(第4版)』は、生成AIを学習のツールに使う意義を認めつつも、AIの仕組みの限界として現在のAIは「本当の意味での知性、インテリジェンスは持ち合わせていない」(p.35)とする。だから生成AIはあくまでツールとして使おうというスタンスである。しかし、本当にAIは「知性」をもっていないのか。これは、本連載「第1回:LLMは理解しているのか?」でみたように、専門家によっても立場が分かれる学術的に開かれた問いであり、アプリオリに決めつけることはできないはずだ。

おそらく、AIスロップ=AI生成物ではない。AIが書いたかどうかはあまり関係がないとしたら、一旦「スロップ」一般について考えるのがよさそうだ。私たちがスロップと呼びたくなるどこか微妙なブログ、企画書、スライド資料に共通するのは、理解されなければ意味がない文章であるにもかかわらず、誰の理解にも紐づいていない、ということである。理解の三項モデルをここで持ち出せば、スロップと呼ばれるのは、何らかの対象についての外的表象が存在しているが、それが誰の内部モデルにも対応していない状況である。

スロップとは、何らかの対象に関する外的表象であるにもかかわらず、まだ誰の理解の一部にもなっていないものである。

「まだ」としたのは、これから、スロップでなくなる可能性があるからだ。つまり、スロップか否かは、その生成プロセスに求めることはできないのである。

さらにいえば、一度スロップだったものが未来永劫そうだとも限らない。たとえば、ある大学生が、丸ごとAIに卒論(テーマは、たとえば「1990年代の日本の科学技術政策」について)を書かせ、そのまま提出したとする。この卒論は、当然ながら、学生の内部モデルと連動しておらず、論文だけが宙に浮いている。これはほぼAIスロップと言ってよさそうだ。しかしもし、それを読んだ友人が、この論文を読んで、90年代の日本の科学技術政策についての自分の内部モデルを獲得できたら、それはAIスロップではなくなる。ここで「理解できる」というのは、友人が90年代の日本の科学技術政策に関して何らかの新しい推論ができる状況を指す。

こう考えると、AI生成物のスロップ性はその外的表象としてのコンテンツそのものに内在する性質ではなく、誰かがそれを自身の内部モデルと連結できるかにかかっている。「美は見る者の中にある(Beauty is in the eye of the beholder)」という文句をもじって言えば、AIスロップは見る者の目の中にある(AI slop is in the eye of the beholder)のである6。

創作物は著者の理解の一部である

何かを書くというのは、理解を立ち上げていく営みでもある。ぼんやり頭に浮かんだことを言葉にしてみる、図にしてみる、そこからフィードバックを受けて自分の頭の中の思考=内部モデルがアップデートされる。ここで理解が立ち上がる。

人間が自分の内部モデルを構築しながら書き上げた文章は、まずは書き手の理解の一部となっている。だから書き手が内部モデルを構築するプロセスのなかで書かれた文章は、スロップではありえない。人類は何百年もの間、自分のためだけにノートをとり、自分の理解を作ってきた7。そうした手帳や日記などの個人的ノートは、その書き手というカウンターパートがいる以上、スロップではない。

書き手が死んでしまったら? あるいは書き手の考えが書いた時とは大きく変わり、自分にすら書いたものが理解不能なものになったら。その場合、その表象は誰にも理解できないものに変わる可能性がある。一方で、私たちの多くが読むものは、著者がいなくなっても誰かの理解を支えるものとして残り続ける。新しい読み手が現れ、その人たちの内部モデルとのカップリングが続くからだ。新しい読み手の内部モデルが、著者の内部モデルがこの世から消えても、その著作を読み手の理解の一部として生き永らえさせる。

古典の中には、もはや誰が書いたかわからないものがある。『オデュッセイア』8『竹取物語』『古事記』といった、作者不明の著作物が読み継がれているのは、それを読んだ無数の人々の理解の一部にこれらの物語が取り込まれてきたからだろう9。それらの作品の価値は、多くの人の内部モデルとリンクしてきた蓄積の厚みにあるのだろう。

読み手中心の世界観

この考え方を突き詰めると、「もはや誰が書いたかはどうでもよい」という考えに行き着くことができる。技術哲学を専門とするマーク・クーケルバークとデイヴィッド・ガンケルは2025年の著書『対話型AIの哲学』にて、そうした考えを打ち出す。彼らは、LLMは本当の世界の表象を持たないために作者になれないという保守的な見方を退ける。かつてロラン・バルトは「作者」という概念が近代の発明であることを指摘し「作者の死(death of the author)」と表現したが、作者なしに文章を生み出すLLMなどのAI技術によって今まさに「作者の死」が具現化しているとガンケルらはいう。

AIが生成するテキストには、作者が不在で読み手だけがいる。「読む行為」のなかで「意味形成」が行われ、書き手という存在は「遡及的に前提」される(p.129)。このようなある種の人文学の流れの中で作られてきたコミュニケーション観が、LLMによってリアリティを増したと著者らは見立てる。

「生成される文章に意味はあり、その意味は、人間が文章を読み、解釈し、中身を評価する際に発生している。これは何も大規模言語モデルに特有のことではなく、バルトが主張するように、あらゆる文書がそうなのである。大規模言語モデルはそれを可視化したに過ぎない。」『対話型AIの哲学』p.130

この部分で言われていることは、さきほど私が作った標語「AIスロップは見る者の目の中にある(AI slop is in the eye of the beholder)」に近い。

しかしだからと言って、私たちはAI生成コンテンツと、人間生成コンテンツをフラットに扱い、そこから意味や理解を立ち上げることはできるだろうか10。ガンケルらの言うようには、「作者」が概念としてすぐに退場するとは思えない。「作者の死」は刺激的だがやや行き過ぎのように私には思える。

私たちはまだ、人が生成したコンテンツに、自分のプロンプトでAIが返してきた生成物より高い信頼をおく。それは、書き手の内部モデルを信用しているのだろう。逆に、人間であっても、見るからにぐずぐずの世界モデル(内部モデル)しか持たない人の文章には、AI生成文よりも低い信頼しか置けない。ある外的表象から理解を作り出すのはあくまで読み手であり、その意味ではクーケルバークらの読み手中心の世界観に賛同する。一方で、そのプロセスが始まるにあたっては、まだまだ書き手の内部モデルへの信頼が不可欠だと私は考える。いかに読み手次第だと言っても、いわゆる「ぽん出し」のAI生成コンテンツがAIスロップであることを免れる可能性はまだ低い。

AIスロップ問題とは何か

結局、AIスロップ問題とは何か。

まず、AIスロップとは何だったかを振り返ろう。ここまでの議論に基づけば、AIスロップ(認識的AIスロップ)とは、まだ誰の理解の一部にもなっていない外的表象としてのAI生成物のことである。AI生成であろうが、人間生成であろうが、何かの対象の説明に関わるような文章や図表といった表象は、それが誰かの内部モデルと連動しているときには理解を支える表象となる。誰が生成したかと、誰かの内部モデルに連動しているかどうかの有無によって、以下の4つに分類してみることができる。

  • ①誰かの内部モデルに連動した人間生成の外的表象:今までの人間の理解を支えてきた文章や図表。
  • ②誰かの内部モデルに連動したAI生成の外的表象:AI生成ではあるが、誰かの理解を支えているためにAIスロップには該当しない。たとえば、冒頭の社内会議の例で、レジュメをAIに作らせたとしても、その内容が自分の頭の中の内部モデルとして取り込めれば、それは自分の理解の一部として機能する11。
  • ③誰の内部モデルにも連動しない人間生成の外的表象:人間が書いたもののなかにも、スロップは存在する。学業や仕事で、とにかく何かを書くことを求められ、自分の内部モデル構築をともなわずに書かれたものなど。スロップが生じるメカニズムはAIと特段変わらないとも言える12。
  • ④誰の内部モデルにも連動しないAI生成の外的表象:AIスロップ。誰かの内部モデルとカップリングすればスロップではなくなる可能性もある(「スロップは見る者の目の中にある」)。
  人間生成の外的表象 AI生成の外的表象
誰かの内部モデルに連動 ①理解を支える表象
(書き手の or 読み手の)
②理解を支える表象
(読み手としての人間の or 書き手としてのAIの?)
誰の内部モデルにも連動しない ③(今のところ)人間生成スロップ ④(今のところ)AIスロップ

今の情報環境では、①、②、③、④が入り乱れている。これを、読み手の状況から考えると、AIスロップの問題が理解できる。いままでは、人間生成の外的表象(①と③)のうち、自分の理解に取り込むに値する①を見極めて、それを理解するように努めればよかった。しかし、今、②と④、とりわけ④のボリュームが格段に増えた。誰の内部モデルにも連動しないような、糸が切れた外的表象が、私たちのメディアや職場や生活のコミュニケーションの空間を占有するようになった。

したがって、AIスロップ問題13とは、何らかの対象を説明しているはずの外的表象が、人間の内部モデルと連結することで理解に取り込まれるペースよりも早く情報空間の中に生み出され続けることによって、本当に自分が自分の理解に取り込もうとするに値する外的表象に出会うコストが高まる状況だと説明できる。何に自分の理解の努力を振り向ければよいのか、その意思決定をするコストが上がった。

加えていうと、いままで信頼してきた書き手すらもがAIを使って、自分の内部モデルと連動できるより早いペースで文章やポンチ絵を量産し始めているように見える。そのとき、その書き手への信頼がゆらぐ。外的表象が内部モデルの上を滑っていっていないか、この人は筆を制御しきれているだろうかと心配になる。後からAIを使ったことを開示された時の「裏切られた感」はここからくるものだと思われる。

AIスロップ問題の概観

こうした、AIスロップに塗れつつある情報空間のなかでどのように自分の内部モデルに取り込むに値する外的表象を選別し、自ら作り出すかという実践面については、余力があれば回をあらためて考察したい。

おわりに・次回に向けて

今回は、理解の三項連動モデルを使って、AIスロップという現象の、少なくとも一部を理解することを試みた。対象、内部モデル、外的表象という三項のうち、AIスロップは内部モデルと外的表象の切断として理解することができることを見た。

理解にとって、内部モデルと外的表象の両方が必要だという私の考え方は、理解の半公共性の重視だということもできる。一方で、理解はプライベートな営為である。他人が理解していることを、すぐに自分が理解することはできなくて、自分は自分なりに努力をしないと理解に至れない。しかし他方で、理解は常に他者を当てにしている。自分が理解し得たことを、他者も理解してくれるかもしれない。逆に他者が理解し得たことは、自分もいつか理解できるかもしれない。この他者との理解の共有可能性を、私は理解の付属品ではなく理解の本質だと捉えたい。理解が完全にプライベートなものでないからこそ、スロップの氾濫が問題になる。

先走って言えば、他者とともに自分の内部モデル(世界モデル)を拡張するメカニズムが理解なのではないかと私は考えている。そして、他者と理解を共有する可能性を支えるジョイント部分が外的表象なのである。

人間同士が共有する外的表象は、理解のジョイントである。インターネットに氾濫している、AI生成の文章たちは、そのほとんどが、誰の内部モデルとの連結ももたず、将来の理解を生むことがない廃棄物同然の存在なので、スロップと言われる。スロップは、理解のジョイントを見つけることを困難にする。逆に言えば、AIスロップに塗れた情報空間のなかで、理解の接木を見つける技術を身につける必要がある。今回はそんな話をした。

次回は、理解の半公共性という考え方をもう少し掘り下げてみたい。とりわけ、「私の理解」を超えて、「私たちの理解」として流通する仕組みについて考えたい。対象、内部モデル、外的表象の3項のうち、ここで出てきたのは内部モデルと外的表象の2項だったが、残りの一項である「対象」が生み出されるダイナミクスについても扱うことになると思う。そこでは、第2回で考えた個人にとっての理解の価値の話を一段広げて、人間集団にとっての理解の機能を考える必要があるだろう。科学哲学や経営学から視点を借りることが有益でありそうだ。

参考文献
  1. 第0回に書いた方針どおり、本記事作成には、文献整理と誤植検知以外にLLMは使用していません。 ↩

  2. Word of the Year 2025: Slop, Merriam-Webster. ↩

  3. この傾向を、自分で作ったものがよく見える傾向を指す「IKEA効果」をもじって「AI IKEA効果」などと呼んでみようかと思っている。 ↩

  4. 飯田一史(2026)『文章からAIくささを消す方法:ポン出し原稿の直し方とAI文体の見抜き方』星海社(星海社新書). ↩

  5. これ以外にも、感情を揺さぶるコンテンツや誕生日のお祝いなど人間関係を深めるためのメッセージについて、スロップと呼ばれることもあり、それらはこれらの二つのカテゴリーとは別扱いすべきかもしれない。 ↩

  6. 最近、英語圏のSNSなどで “Slop is in the eye of the beholder” という言い回しを見かけるようになったが、筆者は2025年12月にX上でこの表現を用いており、検索の限りではこの用例が一番早いようだ。https://x.com/rmaruy/status/2006260536368062617 ↩

  7. 『紙の上で考えることの歴史(原題:The Notebook)』という本には、人が紙を手にしてから、会計、芸術、科学、医学、工学、文学、などなどあらゆるジャンルでノートに文字を綴ることがいかに人々の思考を作ってきたかが描かれている。Allen, R. (2023). The Notebook: A History of Thinking on Paper. Profile Books.(小林玲子訳『紙の上で考えることの歴史:手帳が人類にもたらしたもの』柏書房、2026年8月) ↩

  8. ホメロスという書き手が知られているが、実在したかどうかは不明だという。 ↩

  9. 「古典を読むということは、カルヴィーノのいうとおり、先人たちが通ってきた道(線)を辿り直すこと」永田『再読だけが創造的な読書術である』p.164 ↩

  10. 意味と理解の関係についてはより精緻化が必要になる。今現在の私の捉え方では、意味は内部モデルを構成する要素であり、意味が構造化したものが理解である。したがって、意味を立ち上げることは理解を立ち上げることの必要条件である。 ↩

  11. 書き手としてのAIが理解している、と言えるようになる可能性もあるが、それは第1回の話題に戻る。 ↩

  12. 先日、経験の長い新聞記者とお話したときに、自分が理解し得ていないことを書く記者もおり、そうした記事は読めばすぐにわかる、と言っていた。 ↩

  13. 正確にいうなら「認識的AIスロップ問題」。 ↩