第3回:理解の作業モデルをつくる

本記事は、ブログ連載「AIと生きる時代の〈理解〉考」の第3回です1

第2回はこちら⇩

【AIと生きる時代の〈理解〉考】第2回:理解の価値とは何か

【第3回目次】

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理解考の第3回。本連載の目的は、AI時代の理解の理解をつくることにあった。理解するかのような機械が出現した時代に、私たちはどんな理解をどのように目指せばいいのだろうか。

第2回では、理解という概念を私たちがどう捉えているのかを、理解の価値の側面から考えた。理解はおそらく知識(知ること)の一部だが、知識には収まらない能力(できること)の側面がある。かといって、たんなる能力にも収まらないことを確認した。

こうした理解の特徴を捉えつつ、理解の理解をどうつくるか。今回はいよいよ、理解の作業モデルを提示する。本連載の一つの山場となる。

結論からいうと、私は理解を「モデル構築」の営みとして理解しようとしている。理解を理解するために「理解のモデル」をつくりたいのだが、そのモデル自体がある種のモデルであるということだ。

二点だけ、先に断っていく。

まず、ここでやりたいのは、人間にもAIにも適用できる共通の理解の基準をつくることではない。「AIにも通用する理解の基準は?」という問いを立てたとたんに、本考察は振り出しに戻ってしまう。この連載の議論は以下のように進んできた。

  • 第0回:理解しているように見えるLLMの登場を前に、理解を再考する必要がある。(A)
  • 第1回:LLMは本当に理解しているのだろうかを考えた。それは私たちが何を理解という概念に込めたいかによることを見た。(B)
  • 第2回:私たちはなぜ理解に価値を置くのかを考えた。そこで、知識にもスキルにも還元できない理解の価値があることを見た。(C)
  • 第3回(今ここ):それを掬い取ることができるような理解のモデルは何だろうか?(D)

Dに至った私たちだが、ここでLLMにも適用できる理解のモデルをつくろうとした途端、話はDからBへ戻ってしまう。やるべきは、いったんAIの理解はわきに置いて、自分自身が何かを理解することのモデルをつくることだ。理解の主体としてのAIについて考えるのはそのあとでもよいだろう。

もう一つ断っておくと、残念ながら私には理解というモデルの姿を、構成要素や設計図として見せることはできない2。私にできるのは、理解というモデルがどんな特徴を備えているのかを素描することまでであり、その素描を通じて、AIとともに理解というモデル構築の実践に見通しよく取り組めるようになることを目指す。そこまでできれば、この理解考にとっての理解のモデルとしては用をなすと考える。

理解とはモデルをつくること

では始めよう。前回を思い出すと、そこで出した結論は、「理解とは対象のモデルを自分の中にもつこと」だということだった。次のように書いた。

何かを理解するというのは、単に知識をもつことではなく、動かせるモデルを自分のなかにもち、そのモデルの変数がどう変わったらその帰結がどうなるかをシミュレートできる状態になることだと言える。ある命題を暗記しているだけでは十分ではない。それは「なぜそうなのか」「もし条件が異なったらどうなるか」という反実仮想的な思考を可能にするものでなければならない。たとえば、「鎌倉幕府の第一代将軍は源頼朝である」という知識を持っているだけでは理解とは言えず、「なぜ源頼朝は鎌倉に幕府を開いたのか」といった理由を問う質問(why question)に答えたり、「もし鎌倉以外の地が選ばれたらどうなっていたか」(what-if question)に対する推論ができるとき、鎌倉時代について理解していると言われる。

理解している人は、できることが増える。友人の誕生日パーティを企画することになったとする。どのお店を予約するか、誰を呼ぶか、どんな機材が必要で、余興の準備は誰に頼むか。良いお店を知っているというだけではなく、パーティを企画するとはどういうことかに関するよいモデルを持つ人は、自分の選択の結果をあらかじめイメージし、先回りしてトラブルシュートし、大体思い描いた通りのプランを実行できる。理解というモデルを持つことによって、私たちは自分で行動を行う前に、自分たちの行動の帰結を推論することができる。理解がなければ、人生は無鉄砲な試行の連続になってしまう。

そして、他者やAIに頼らずに使えるモデルを内部モデルと呼んだ。頭の中の内部モデルを動かすことで、私たちはうまくこの世界で立ち回ることができる。

一方、私は外部モデルという言葉も使った。Vibe Codingでウェブサイトをつくった私はプログラミングを理解していないし、中国語の部屋のジョン・サールは中国語を理解していない。それでも「できる」のは、自分の中にないモデルを、AIやマニュアルや他者という外にあるモデルに肩代わりさせているからだ。これは、外部モデルを使って理解を迂回することに当たる。

しかし、内部モデルとか外部モデルとかいうとき、私が「モデル」と呼んでいるものはなんなのだろうか。理解をモデルと言い換えたところで、モデルの意味があいまいでは、理解の理解が進んだことにはならない。モデルという言葉で言わんとしている中身と、それがどう理解と関わっているのかを、もう少し明確にしたい。

そこで以下では、二つの系統のモデル論を踏まえたい。それは、心理学に起点をもつメンタルモデル論およびそれと連続性をもつ世界モデル論、そして科学哲学に起点をもつ科学におけるモデル論である。

メンタルモデルから世界モデルへ

心のなかにモデルがあるという見方は、心理学・認知科学では珍しいものではない。これは通常、20世紀前半の心理学・哲学者ケネス・クレイク(Kenneth Craik)に帰される3。1943年の単著 The Nature of Explanation にて、当時20代のクレイクは次のように書いている。

ある生物個体が、外の現実と自身が取りうる動作についての「小さなスケールのモデル」を持つならば、その個体は実際に未来の状況が訪れる前にいろいろな動作を試し、最もよいものを選ぶことができる。現在および未来の事態に対処するために過去の事象に関する知識を生かし、個体が直面する危機的な状況にはるかに完全で安全で有効な方法で応答することができる。

— Kenneth Craik, The Nature of Explanation (1943), p. 61(筆者による翻訳)

外の世界をモデルへと「翻訳(translate)」し、モデルを動かして含意をさぐり、それを世界の側に再翻訳(retranslate)する。それを行うための「小さなスケールのモデル」を生物はもつのではないかと、クレイクは考え、仮説(hypothesis)として提示した。この、頭の中のモデルという考え方は、1980年代前半に心理学ではメンタルモデル論として確立していく4

そして、このメンタルモデルの考え方は、近年、機械学習における「世界モデル」という考え方に合流している。世界モデルとは何か。世界というと大げさだが、「世界全体のモデル」というよりは「世界についてのモデル」という意味に取るのが正しい。強化学習を行う機械学習エージェントがその内部にもつ環境についてのモデルのことであり、心理学のメンタルモデル論を引き合いに説明されることが多い。

もう少しだけ厳密にいえば、世界モデルは、エージェントが自分の行動の結果として世界がどう変化するかを予測する内部モデルである。形式的には次のように書ける。

P( observation(t+1), state(t+1) | action(t), state(t) )

つまり「いまの状態(state)でこの行動(action)を取ったら、次に何が起こるか(観測: observationと状態がどう変わるか)」を確率的に推定するための内部モデルである5

AIの根本的なアイディアを多数提示してきたことで知られるユルゲン・シュミッドヒューバーが前世紀にこの概念を提示し、2018年にHa & Schmidhuberが発表した World Modelsという論文が現在の用法を広めた6

理解とは単に内部モデルをもつことではない

心理学のメンタルモデルと、機械学習・AIの文脈における世界モデルの概念についてみてきた。これを理解とどうつなげればよいのだろうか。

実は、本連載を書く前の私は、理解とはある種のメンタルモデル/世界モデルをもつことだと考えていた。実際に、2020年代の「AIの理解」をめぐる議論でも、世界モデルは理解と強く結び付けられている。第1回で取り扱った「LLMは理解しているのか」という問いは、しばしば「LLMは世界モデルをもつのか?」という問いに差し替えて議論されている7

しかし、数ヶ月考え続けた結果、メンタルモデルないし世界モデルをもつことが理解だという捉え方は不十分だという結論に至った。以下では、メンタルモデルや世界モデルという意味で、内部モデルという言葉を統一的に使うことにしよう。

「内部モデル=理解」では不十分な理由は二つある。

1)内部モデルはあるが、理解はないという状況がありうる。 カエルは獲物の虫の動きに関する内部モデルをもつことで、その軌道を予測し適切に身体を動かして捕まえることができる。しかしそれだけでは、カエルが虫の動きを「理解」したとは言えないのではないか。人間の場合でも、自転車の乗り方や、外野フライの捕球法など、練習によって身につけた動作は、脳や身体に内部モデルとして埋め込まれているが、「なぜ自分ができるかわからない」ということもある。これらは、内部モデルをもっているにもかかわらず、理解できていない事例として捉えたい。

2)「内部モデル=理解」という理解の理解は、有用性に乏しい。 実際にある人が内部モデルをもつことを示す方法は二つ考えられる。一つは頭(脳)の中をあけて「ここにモデルがある」と見せるやり方。AIや脳科学における理解の研究であれば、それは一つの方向性だろう。しかし、この理解考ではその方法はとれないとすると、もう一つの方法に頼るしかない。つまり、内部モデルをもっていることを外的に特徴づけるのだ。「理解しているように見える行動をとれる」という能力(ability)によって、「内部モデルをもつ」ことを定義する。しかしこれでは、「内部モデルをもつ」と「理解している」が論理的に循環してしまう8。結局、この捉え方には本理解考が目指すようなプラグマティックな価値が乏しい。

つまり、理解=内部モデルというモデルは、1)事実としての不十分さと、2)モデルとしての有用性の乏しさを抱えている。したがって、もう少しひねりのある議論が必要となる。そのためにも、そもそも「モデルとは何か」について足場を固めておきたい。

科学哲学におけるモデル

メンタルモデル論の祖とされるクレイクは頭の中にある「小さなモデル」を構想したが、これ自体が一つのモデルだ。彼は、私たちがよく知っている「モデル=模型」のようなものが、頭の中にもあったとしたら、という仮説を考えたわけだが、ここには、目に見えるもの(模型づくり)で目に見えない心的な働き(思考)を理解しようというアナロジーが働いている。だから、メンタルモデル論は、「モデルを用いたモデルの話」、いわば二階のモデルの話をしていることになっている。

ならば、まずは「ベタなモデル」について考えよう。二階のモデルであるところのメンタルモデルではなく、ベタな、一階のモデルについて考えてきたのが、科学哲学である9

科学者は、世界の現象を説明し、予測するために様々なモデルをつくる。科学哲学者のマイケル・ワイスバーグは著書『科学とモデル』にて、科学者がつくるモデルとして「具象モデル」「数理モデル」「数値計算モデル」の三種類を挙げている10

  • 具象モデル:実際に物理的につくられるモデル。代表例として、20世紀中ごろにサンフランシスコの巨大ダム工事計画の影響を調べるためにつくられた模型である「サンフランシスコ・ベイモデル」。
  • 数理モデル:方程式で書かれるモデル。代表例として、生態系の被食者と捕食者の数的関係を微分方程式でモデル化した「ロトカ-ヴォルテラ・モデル」。
  • 数値計算モデル:アルゴリズムの形で書かれるモデル。代表例として、トーマス・シェリングによる「人種隔離シミュレーション」。

ワイスバーグによれば、こうした多種多様なモデルには、共通する構成要素として「構造」「モデル記述」「解釈」の三つがある。モデルは、物理的構造であれ、数学的構造であれ、アルゴリズムであれ、何らかの構造をもち、それが図面、模型、式、ソースコードなどで記述される。さらにそこに解釈(construal)が加わる。解釈には、当該モデルが現実世界の何を表しているのか(=割り当て)、モデルのどこまでを現実世界と対応づけるのか(=範囲)、どのくらい現実世界に似ていることを要求するか(=忠実度基準)という、いわばモデルを用いる科学者の意図が反映される11

ワイスバーグをはじめとする科学哲学者が議論するのはあくまで科学におけるモデルだが、科学という営み以外でも、私たちは様々なモデルをつかって用を成している。たとえば、スケジュール管理のために使う手帳、目的地にたどり着くために用いる地図、数十年後の貯蓄を予想するフィナンシャルプランニングのシミュレーションなど、精巧なものから素朴なものまで、私たちは日々そうしたモデルの助けを借りて生活している。科学者ほどに厳格ではないにせよ、そこではワイスバーグがいうような「構造」「モデル記述」「解釈」が多かれ少なかれ存在していると思われる。

そして、こうした科学や生活で多用される「頭の外」にある普通のモデル(模型)を念頭に、「頭の中にもそういうものがあるのでは?」という「二階のモデル」について考えたのがケネス・クレイクであり、その後の心理学のメンタルモデル論だと言えるだろう。

理解の三項連動モデル

心理学のメンタルモデル論と科学哲学のモデル論を一瞥してきたところで、私の理解のモデルを提示する準備が整った。改めて、理解するとは、どういうことなのだろうか?

私は「理解の三項連動モデル」を提示したい。これは次のように表現できる。

理解の三項連動モデル:ある主体がある対象を理解しているとは、その主体において、対象・内部モデル・外的表象の三つが相互に連動して存在していることである。三者は互いを構築しあいながら立ち上がる。

この立場では、理解には、対象内部モデル外的表象の三者が絡む。

  • 対象とは「何についての理解なのか」を指す。理解には常に対象がある。今起こった出来事であったり、過去に起こった出来事であったり、話しかけられた言葉の意味であったり、算数の問題であったり、未解明の科学的な謎であったりする。
  • 内部モデルは、先述したメンタルモデルのことである。対象についての内部モデルをもつことによって、理解の主体(前回のハソク・チャンの言葉では認識エージェント)は対象について予測し、適切な対応をとることができる。私たちは、自分の内部に、物理現象や身の回りの他者、社会現象といった様々な対象についての内部モデルをもつ。そのモデルはワイスバーグのいう構造をもつ。

しかし、内部モデルをもつ「だけ」では、理解は成立しない。もう一つ必要なのが内部モデルの外的表象である。

  • 外的表象は、上述のワイスバーグのいう「モデル記述」に対応している。ある対象を表象し、そのふるまいの予測や制御に資するような、言葉、数式、機械、図表、模型などを指す。理解者の「外」に具象的、ないし記号的に表現されたものであるため「外的」表象といっている。

図1 理解の三項連動モデル

三項連動モデルによれば、ある対象を理解していると言えるためには、内部モデルと連動した外的表象が必要である。連動していると言えるためには、次の二つがともに満たされている必要がある。

  • 理解の主体は内部モデルを使って外的表象を使いこなすことができる
  • 内部モデルを外的表象に変換できる

ワイスバーグのいうモデルの「解釈」は、モデルを用いる主体がモデル記述と連動する内部モデルをもっていることによって担保される。外的表象と連動した内部モデルをもつことによって、理解された内容は対象の予測・制御に使えるだけでなく、外的表象を介して他者と共有し、一緒にその理解を深めていくことも可能になる。次回以降、さらに触れられればと思うが、このことが理解の私秘性と公共性の両立を実現する12

このモデルの一つの含意は、内部モデルをもつだけでは理解とは呼べないということである。私たちは、生物として、自分が理解できる以上の内部モデルを豊富にもっている。何となく「悪い予感」に頼って危機を回避することもできる。しかしそれは理解ではない。理解は、単なるパターン認識ではない

なお、この定義は、ある人が何かを理解しているかどうかを、その理解の内容が「究極的に正しいか」という事実性(factivity)によっては規定していない13ことに注意してほしい。「外的表象と連動した内部モデルをもつことができているか」が基準であり、その成否は外的表象への表現可能性と、それらを使って成功裏に予測や制御ができるかによって判定できるという意味で、プラグマティックな定義になっている。ただし、個人の能力だけで定義されるのではなく、外的表象という他者による解釈可能性が要件に加えられている。

理解はどのようにつくられるのか

理解のモデルでもう一つ重要なのは、対象・内部モデル・外的表象が「互いを構築しあいながら立ち上がる」とした点である。

理解はどのような順序でできるのだろうか。モデルの外的表象がまずあって、内部モデルができる場合もある。子どもが親や教師から何かを教わる場合が典型だ。逆に、内部モデルが先でそれが外的表象に変換される場合もあるだろう。体得した音楽の演奏やスポーツの動作を、言語化する時に起こるのはこれだろう。内部モデルだけがあり、外的表象を伴わないような知識が暗黙知14と呼ばれる。さらに、科学的探究などにおいて新しい理解をつくるような場面においては、内部モデルと外的表象は同時につくられると考えられる15

また、理解の「対象」自体も決して与えられたものではなく、理解の主体が自分で見つけ出すものである。公園でぼんやり眺める風景のなかにも、理解する可能性のある対象の候補は無限に存在している。わからない、という感覚が立ち現われ、それが「理解すべき何か=対象」となる。対象と内部モデル、その外的表象の往還のなかで、理解の対象(問い)そのものもつくり変えられながら、問いと解が相互構築(ブートストラップ)していく。

伝わりやすいかはわからないが、自分自身の最近の体験を例に挙げてみたい。私は、東京の東部に住んでおり、都心に出るときには東京メトロ東西線に乗る。先日、長女と東西線に乗っていた時のことだ。

茅場町駅から門前仲町駅に向かう区間で、娘が「次の駅までは遠いんだね」と言った。それで私は、この二駅の間には隅田川があることを思い出し、「川の下を潜っているからね、だから駅の間隔も長いのかもね」と答えた。と同時に私の脳裏には、この数駅先で東西線は今度は荒川を横断するのだが、そこでは地下ではなく地上で渡ることに気づいた。

そのときに、荒川は幅が広くて、おそらく深さもあるのだろうから、東西線を地下に通すことは難しいんだなということに気づいた。さらに同時に、東西線の鉄橋の数キロ北にある、都営新宿線も地下ではなく地上の鉄橋を走っていることに気づいた。このとき、私は人生で初めて、「隅田川の下は地下鉄が走れるが、荒川の下は無理らしい」ということを「理解」した。

そしてそれと同時に、この私の理解が、先行する「問い」を伴わずにいきなりやってきたことに気づいた。私は今まで、「なぜ都営新宿線や東西線は荒川を渡る一つ手前の駅で地上にあがるのだろう?」「なぜ隅田川の下を地下鉄が走れるのだろう?」などという問いをもったことがなかった。抱いても全くおかしくはない、当然の問いだと思うが、毎日乗っている電車についてのそうした問いに、思いを致すことはなかった。「隅田川の下は地下鉄が走れるが、荒川の下は無理だ」という理解の対象は、この瞬間に、私の人生で初めて自分の意識に上った。そして私の脳裏には、深い荒川を渡る橋と、浅い隅田川をくぐるトンネルのイメージが、潜在的な外的表象を伴って、内部モデルとしてつくられた。潜在的な外的表象といったのは、いつでもその「絵」を私は紙に書くことができただろうからだ。

図2 東西線での気づきの外的表象

このように、理解の対象・内部モデル・外的表象は同時にやってくることがある。これが、三項連動モデルで三項が「互いを構築しあいながら立ち上がる」ということの意味である。

理解に本当にモデル・表象は必要なのか

一つ、ありうる批判に答えてみたい。私の理解のモデルは、単なる対象と内部モデルの二項関係から三項関係に広げたとはいえ、対象があってそれを心の中でモデル化するという建付けは踏襲している。一方、外の世界と認識主体を分けて、両者の表象(representation)関係を想定する見方は、認知科学や哲学では乗り越えられようとしてきた流れがある。

認知科学においてはナイーブな表象主義を乗り越えるため、認識主体と認識対象の連結を重視するエナクティビズムの潮流がある。理解をめぐる科学哲学でも、「説明としての理解」からよりプラグマティックな理解観を目指す論者も出てきていて、そこでは表象を重視する理解の理解から離れる方向が模索されている16

また、神経科学の哲学者であるマズヴィータ・チリムータは、2025年の短い論文で、心のなかにモデルがあるという見方はケネス・クレイクより以前のHelmholtzやMachに見られると指摘した17。その上で、この「思考するとはモデルをつくることである」という見方は、今の人工知能・機械学習において疑う人のいない想定(shared assumption)だが、それが物理学に由来する見方であり、決して自明ではないという。

こうした議論になじみのある読者からすると、現実と紐づく「モデル」や「表象」を中心とした理解の理解は、もはや乗り越えられるべきもののように見えるかもしれない。

これに対しては、ごく直感的な応答にはなるが、次のように考えている。たしかに、認識主体と世界(環境)を切り分けて、両者の間に表象関係を求めるような認識のモデルには限界があるかもしれない。一方で、こと理解にかけては、対象を別の何かで表現するという表象の概念からは逃れられないのではないか。何かを理解しようとすることは、本来分かちがたい自分と対象を束の間切り離し、対象を別の何かで捉えることができるというフィクションに身を委ねていることを含むのではないか。たとえ存在論的には表象は成立していなくても、理解という認識活動には表象という仮構が必要なのではないか。

まとめ・おわりに

今回は、「内部モデル=理解」という捉え方の不十分さから出発し、独自の理解のモデルを提示した。先に「内部モデル=理解」では有用性に乏しいと書いたが、では三項連動モデルはどれだけ有用なのだろうか。言い換えれば、三項連動モデルは、どのように「動かす」ことができるだろうか

これは次回展開していきたいが、いくつかいえることがある。

一つには、三項を意識することによって、理解ではない状態から理解への移行をより明確に捉えることができる。

  • 内部モデルだけがあり、外的表象がない状況:認識主体が、何かができるが、なぜそれができるかが他者に共有可能になっていない状態。暗黙知と呼ばれる。それをうまく外的表象にマップできたときに、暗黙知が理解になる。
  • 対象と外的表象だけがあり、内部モデルがない状況:専門書に書かれていることが理解できない状況が典型。その外的表象をつくった人と似た内部モデルがまずは必要になる。勉強を重ねて、内部モデルを充実させていくことで、理解にいたることができる。
  • 内部モデルと外的表象があるが対象がない状況:これは変則的だが、対象がないモデルというのも科学哲学の議論の中には存在する。操作のルールが定まっているが「まだ意味がない」記号操作に、あとから意味が付与されるということが数学の歴史ではたびたび起こっている18。表現力のある表象系のなかで「遊ぶ」ことは、将来の理解の可能性を開く活動であると言えるかもしれない。
  • 対象だけがある状況:強く明確な問いがあり、それを「わかりたい」というモチベーションがある状況。内部モデルと外的表象を往復しながら、両者をつくりあげていく。私が「理解」についてこのブログで行っていることはその一例。

そして、本連載にとって大事なのは、三項モデルをとることで、AIとともに理解することの実践にどう役立つかということだ。先取りしていえば、AIは外的表象のプールへのアクセスを高速化してくれるが、内部モデル構築の部分は理解主体である私たちに残る。これが、次回以降で考える、AI時代の知識生産術の足場となる。次回は、理解の三項連動モデルをもう少し具体的に動かし、その含意を展開したい。

補遺:記号創発システム論との関係

最後に、上記の理解の三項連動モデルが、その発想の中心的な部分を、記号創発システム論に負っていることを開示しておく19。記号創発システム論は、谷口忠大が過去15年以上にわたって展開してきた理論である。私たち人間の集団にとって意味をもつ記号が、個人の発達プロセスのなかでどのように意味を獲得し、また社会としてどのように記号体系ができあがるのかを、確率的生成モデルの数理と、ロボティクスを含む構成論的なアプローチによって示す。

記号創発システム論では、次のような描像が取られる。記号創発システムを構成する認識主体(個人)のなかには、確率的生成モデルの潜在変数としてモデル化される内的表象がある。他方、個人間の記号的相互作用のもとで創発するグローバルな変数として外的表象がある。そして両者は、分散的なベイズ推論のプロセスとして、ともに表現学習される20

私の知る限り、記号創発システム論では「理解」という認知過程はそれほど明示的には扱われてきていないものの、基本的には本稿における理解の三項連動モデルはこの記号創発システム論の世界観の枠内にある。本格的に記号創発システム論の専門用語で本稿の枠組みを記述することは本稿の手に余るが、たとえば「内部モデル」は、内的表象が構造化された生成モデル(世界モデル)に相当すると考えられる。

参考文献
  1. 第0回に書いた方針どおり、本記事作成には、文献整理と誤植検知以外にLLMは使用していません。 

  2. もしそれができたら、自身の理解を精密にコントロールすること、いわば理解の工学ができてしまうだろう。 

  3. Craik, K. J. W. (1943). The Nature of Explanation. Cambridge University Press. 引用は第5章 “Hypothesis on the Nature of Thought”, p. 61。 

  4. ただし、クレイクから心理学のメンタルモデル論へ、という流れは複雑なようだ。ナーセシアンによれば、クレイクの言うモデルとは現実世界の現象に構造的・機能的に似たものであり、思考のもつ予測能力にその主眼が置かれていた。たとえば1980年代に立ち上がったメンタルモデル研究の一つであるジョンソン=レアードの著作は、論理的推論や談話理解の際に作業記憶のなかに一時的に構成される表象に焦点を当てた(Nersessian 2008)。 

  5. ヤン・ルカン(Yann LeCun)はもう少し複雑な定義を示している。「観測 x(t)、直前の世界状態の推定 s(t)、とりうる行動 a(t)、潜在変数 z(t) が与えられたとき、世界モデルは、表現 h(t) = Enc(x(t)) と予測 s(t+1) = Pred(h(t), s(t), z(t), a(t)) を計算する。Enc() は表現へのエンコーダ(学習可能な決定論的関数、例えばニューラルネット)、Pred() は隠れ状態の予測器。潜在変数 z(t) は『何が起きるかを正確に予測できるようにする未知の情報』を表す。」(LeCun氏の投稿) 

  6. ただし、Schmidhuberの世界モデルは、世界のコントローラーとシミュレーターを分離させていることに特徴があり、注5のルカンの定式化よりはもう少し具体的なアーキテクチャが構想されている。なお、少しややこしいのは、「世界モデル」という言葉が揺らぎ始めているということである。物理的な3次元世界のシミュレーターが世界モデルと呼ばれることが増えてきている。谷口忠大ら(2026)“Generative emergent communication: large language model is a collective world model” は、タイプ1とタイプ2の世界モデルという区別を導入している。タイプ1の世界モデルとは、エージェントが自身のセンサと運動を通じた環境との相互作用から学ぶ、主観的な内部モデルである。これに対しタイプ2の世界モデルとは、世界にどのような事物があり、それらがどう関係しているかについての、構造化された客観的な知識であるとされる。本稿では、タイプ1、つまり今の世界の状態の推定と新しい観測から、自分のとりうる行動の帰結を予測できる確率モデルとしての世界モデルを考える。 

  7. Mitchell, M. (2023). “AI’s challenge of understanding the world”. Science, 382(6671), eadm8175. 

  8. 理解を、主体がもつモデルの側から見るか、能力(ability)としてみるかを論じた、Chen et al. (2026) は示唆的。Chen, H., Grimm, S. R., Russakovsky, O., & Lombrozo, T. (2026). “Machine understanding”. Trends in Cognitive Sciences.[筆者の読書メモ] 

  9. 科学哲学のモデル論の多様な論点について:Frigg, R., & Hartmann, S. (2020). “Models in science”. The Stanford Encyclopedia of Philosophy

  10. 同書については筆者の読書メモを参照。 

  11. 科学哲学のモデル論のなかにも様々な立場があって、モデルの他の分類を示す論者もいれば、モデルとモデル記述を分ける立場にも論争があるようだ。 

  12. ここで、科学哲学における理解論との接続について一言。理解の哲学の代表的な論者であるHenk de Regt は、いったん理解の現象論的な側面をわきに置いたうえで、intelligibleな理論をつくれたことをもって理解とするとした。Intelligible theoryは、大雑把にいうと本稿における外的表象(モデル記述)に相当すると考えられ、内部モデルとの連動性がそのintelligibilityを担保すると解釈できる。de Regtの二つの基準は次のとおり。CIT(Criterion for the Intelligibility of Theories):理論Tがintelligibleであるとは、科学者がTの特徴的な帰結を、厳密な計算を経ずに認識できること。CUP(Criterion for Understanding Phenomena):現象を理解しているとは、intelligibleな理論に基づく適切な説明をもつこと。出典は de Regt, H. W. (2017). Understanding Scientific Understanding. Oxford University Press.[筆者の読書メモ]。 

  13. これは認識論ではfactivity(事実性)論争として知られている。 

  14. Polanyi, M. (1966). The Tacit Dimension. University of Chicago Press.(高橋勇夫訳『暗黙知の次元』筑摩書房、2003) 

  15. ナンシー・ナーセシアンは、10年以上におよぶバイオエンジニアリング研究室の参与観察を通じて、研究者のメンタルモデルと、科学的なモデル(外部モデル)が連結(coupling)しながら出来上がる次第を記述している。Nersessian, N. J. (2022). Interdisciplinarity in the Making: Models and Methods in Frontier Science. MIT Press. 認知科学者のバーバラ・トヴェルスキー『Mind in Motion』では、外的表象と内的表象が相互作用しながら人間の思考を作り上げていくことの事例が豊富に紹介されている。Tversky, B. (2019). Mind in Motion: How Action Shapes Thought. Basic Books.(渡会圭子訳、諏訪正樹解説『Mind in Motion:身体動作と空間が思考をつくる』森北出版、2020) 

  16. Westerblad, O., & de Regt, H. W. (2025). “Scientific understanding beyond representing: lessons from Ian Hacking’s work”. The Monist, 108(4), 353–371. 

  17. Chirimuuta, M. (2025). “The prehistory of the idea that thinking is modelling”. Human Arenas, 8(3), 839–845. 

  18. 森田真生(2021)『計算する生命』新潮社。筆者の読書メモ。なお、対象をもたないモデルの科学哲学的な扱いについては、ワイスバーグの「対象なしモデリング」として論じられている(Weisberg 2013, 邦訳第7章「特定の対象なしのモデリング」)。 

  19. 谷口忠大編(2024)『ワードマップ 記号創発システム論:来るべきAI共生社会の「意味」理解にむけて』新曜社。あわせて Taniguchi, T. (2024). “Collective predictive coding hypothesis”. Frontiers in Robotics and AI, 11, 1353870. 

  20. 記号創発アウトリーチチームによる解説記事、スタディノート#5(確率的生成モデル)#6(予測符号化・世界モデル・能動的推論)#7(集合的予測符号化仮説) を参照(いずれも2025年)。