『ヒトとAI』書影

岡野原大輔『ヒトとAI』岩波新書(新赤版2122)、2026年7月22日刊・222頁(岩波書店の書籍ページ

日本を代表するAI企業を経営し、日々最先端の技術を発信する研究者でもある著者による岩波新書。

AIの技術的な解説が主であり、その社会的な影響や人間観に関する「文系」的な話題はサブ的だったこれまでの著書と異なり、本書ではむしろ技術的な解説はそこそこに、AIと比較したときの人間の知能の特徴を考察し、さらにそれを踏まえてAIが社会に入り込んでいくときに仕事や教育や社会設計がどうなっていくのかに関する考察が大半を占める構成となっている。

全体を通して、主張が首尾一貫しており、今到来しつつあるAI社会の姿をくっきりと描いて見せてくれる見通しのよさと、それが著者の中で考え抜かれていることをうかがわせる筆致の迷いのなさを感じる。細かいところでは同意ができない部分があったとしても、これからの議論の土台にすべき一冊だと言えると思う。

本書が一貫して描こうとするのが、「判断過程が不可視になるなかで人間が判断結果を引き受ける世界」(p.14)の在り方である。昨今、AIは「理解しているのか?」「感情を持つのか?」「創造性を持つのか?」など様々にその能力が問われるが、著者はそうした能力の向上を認めながらも、AIには責任を取ることができない、という一点に、人間とAIの違いを集約させている。なぜそうなのか? それは、AIはその設計上、「自らの選択の結果を自分の生として引き受けないから」だと著者はいう。AIはいろいろと判断をするが、その判断が「取り返しがつかない」という感覚は持たないし、その判断の結果を自らのなかに「履歴として不可逆に刻む」ということをしない。そのように設計された存在に対して、私たちは責任を帰属させることはできない。この主張が、本書を貫くものとなっている。

その前提のもとで、AIが人間のあらゆる業務プロセスに入ってきたとしても、責任を持って判断する部分はますます人間が「引き受ける」必要がある。「目的の定義、評価基準の設計、どこで止めるかという判断は、依然として人間が引き受け続ける必要がある。」(p.122)こうした定義・設計は、これまでは人間集団の中で暗黙的に共有されている「文化」によって担保されてきた。いまのAIの言葉を使えば、文化は人間の行動を自然に狭める「ハーネス」として機能してきたのだと著者はいう。文化を人間と共有しないAIとともに働く時代には、経営者だけでなくAIを使う誰もがそうした設計を明示的に行う必要がある。

本書で最も目を引く提案が、こうした「再設計」において、新しい言語が求められてくるのではないかというものだ。一定のあいまいさを持つがゆえに「緩衝材」として機能してきた自然言語は、仕事をエージェントにゆだねたうえでその責任を人間が引き受けるうえでは不十分かもしれない。求められるのは、「目的や制御を列挙するのに加えて、どの条件が満たされたときに判断が切り替わるのか、どこで人間が介入すべきなのか、どの選択が誰の責任として確定するのかといった判断の分岐点そのものを、構造として記述する」(p.151)ための「第2の言語層」だという。著者はこの言語層の具体的なイメージを本書では語っていないが、何かアイディアがあるのだとしたら非常に興味深く重要なものになると感じた。

以上は本書の一部にすぎないが、これだけからもわかるように、著者はかなり強く、人間を、責任を引き受ける主体として規定している。AI研究者としては意外なスタンスにも思えるが、AIを真剣に社会に浸透させることを考えた末に、このような「責任」の配分に着目し、それを技術で解決すべき工学的問題として捉えるに至るのみならず、最終的には人間に配分する社会・制度の問題として捉えているところが興味深い。おそらく多くの人が落ち着いて考えれば至るであろう結論に、6か月から12か月早く至り、書籍の形で見せてくれている、という感覚もある。

一方で、本書で示される責任や主体の考え方そのものが、近代社会のフィクションであるという見方は簡単にとることができる。AIが今、そのフィクションのうえにかろうじて成立してきた安定性を揺るがしているのだとすると、本書のようにそのフィクションの安定性を取り戻す方向で考えるだけでなく、それとは別のフィクションをつくる方向性も論理的には考えうる。しかし今、代替できるほど強いフィクションは存在しないし、あったとしてもこれまでの慣性を打ち破って次の安定状態に移行することはものすごく大変であろうことを考えると、本書の「責任」を軸に次のAI社会を考えるナラティブが納得感をもって受け入れられる可能性が高いと感じる。