2026年3月14–15日、東京の日本科学未来館で2日間のイベント「メタサイエンス・ミートアップ 2026」が行われました。

明日からまた本務で忙殺されるため、感想を書きなぐってしまおうと思います。

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二日間のプログラムでは3つの基調講演と5つのセッションが組まれ、メタサイエンス運動の国際動向、科学の計量的な分析であるScience of Science、私がオーガナイザーを務めたAI for Science、多様な分野におけるオープンサイエンスの批判的検討などに関するセッションに、20〜30名の登壇者が話題提供を行いました。

メタサイエンス研究会のコアメンバーの尽力(資金提供を含む後援は広島大学)で実現したイベント。予想を超えて充実した2日間でした。メタサイエンス運動とは何か、ということを私は2023年くらいから折に触れて紹介してきたのですが、「メタサイエンス」を冠するイベントに、学術界、官庁、産業界から100人以上の方が集まる状況になったことには感慨がありました。

個別の発表については、手元の速記メモをまとめる余力がないため、ここでは個人的なtake homeをメモしておくことにします。極めて抽象的な内容になります。

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なぜ「メタサイエンス」(現代的なメタサイエンス運動における意味でのメタサイエンス)の議論をする必要があるのか。それは端的に言えば、①科学というのが本質的に社会的な営みであり、しかも②変化するから、だろうと思います。

科学は知識を生み出す活動ですが、それを人間集団が集合的に行います。だからおのおのが自分ルールでやるわけにいかず、科学の「やり方」についての合意がいる。妥当な知識とは何か、どのような知識に価値があるか、集団としてどのようにそれを追求するとよいのか、各個人の貢献をどのように評価するのか、誰がどのようにその活動にリソースを提供するのかといった、「営みとしての科学のやり方」のそれぞれの部分においてコンセンサスが必要になります。しかも、科学はその都度変化するので、一回合意を見たやり方を続ければよいということではなく、常に新しい技術的・社会的環境に合わせてアップデートが必要になります。

科学哲学などの伝統的メタサイエンスはそれ自体を探究の興味対象として行ってきたわけですが、それ以外の、科学や研究に関わる人々も、それを淡々と「やる」だけではなく、それをどう「集団としてやるべきなのか」について考えるという「メタ」な視点に立つことを求められるし、促される。それが現代的なメタサイエンス運動なのだろう。ここまでが、私を含め「なぜメタサイエンスにかかわるのだろう?」 という問いに対する、私がこの二日間で得た暫定的な答えでした。

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その上で思ったのは、このコンセンサスをつくる「単位」についてでした。当然、科学・学術は多様であり、異なる分野にはそれぞれの事情があります。国や文化によっても理想的な科学者像が違っているかもしれないという話も、2日間のあいだに数回聞かれました。

しかし私が感じたのは、分野や国といった境界よりもさらに細かく、「科学のやり方」を共有するコミュニティのサイズが小さくなるのかもしれない、ということでした。

一例を挙げれば、AIエージェントに研究を行わせて研究論文も書かせ、自身は「研究の責任者」としての役割を果たす、そうしたスタイルの研究者像が現実のものとなるなかで、研究者の中にはそのような働き方にシフトする人もいます。一方で、あくまで自分で論文を書くことを旨とする人もいます。そうなってくると、人によって研究論文の意味も読み方も変わってくるはずです。

これはあくまで一例で、科学に対する社会的な期待の変化や、AIを代表とする研究の基盤的技術の進展、世界的な研究者数の増加など、さまざまな要因が絡み合うなかで、「科学とは何か」「科学は何を目指す営みなのか」という「価値観」が細分化するとしたら、同一基準で研究を評価することも難しくなっていきます。いま、科学にはそうした遠心力が働いているように私の目には見えます。

今回のミートアップには科学技術行政の関係者(文科省やJST)の方が多く来ており、それはものすごくエンカレッジングなことだと思ったのですが、行政にとってはものすごく難しい事態だとも感じます。なぜなら、これまで分野に多様性はあれど、「科学」「技術」「学術」というものがあり、それに対して資金配分をはじめとする制度を作っていくということになっていたわけですが、科学・学術が「価値観」のレベルで細分化していくことは、特に中央省庁の政策づくりにおいて、問題自体を確定することができないというような難しい事態につながるのではないかと思います。

最後に林和弘さんが、移ろいゆく科学を捉えるという困難と面白さに触れ、「創りながら理解する所作がこれからのメタサイエンスに求められている」とおっしゃいました。その必要性は「科学が多元化する状況」という理由からもいえることだと思います。つまり、一つ、ないし少数の科学という考え方が保持できないのであれば、それをカタログのように集めるのではなく、自分たちが求める科学を作ってしまうほうが速いのかもしれません。

そこで問題になるのは、私が会期中に高木志郎さんとDiscordで少し議論していたように、どれくらいの規模でやるのが良いのだろうか、ということです。科学は社会的な営みである以上、一人で「新しい科学のやり方」をつくることはできません。せいぜい50人くらいでしょうか。それくらいの単位で「自分たちが思う科学のやり方」を提案し、資金を集め、試してみる。これが、アカデミスト柴藤さんがいう、研究者のビジョンを起点にもつ研究活動が分散的に起こっていくという研究エコシステム像とも呼応するように思います。

こう考えると、メタサイエンスの議論や科学政策に求められることも見えてきます。新しい科学のモードが百出することを「前提」に、そこに「大きなコンセンサス」をもたらそうとするのではなく、多様化を促しつつ、よりよいものを伸ばす土壌をどう作るかということこそが、分野横断的なメタサイエンスや政策の目線で求められることではないでしょうか。初日には、英国の科学政策の実験精神や、日本の文科省でも無謬主義を脱して失敗を許容し試してみるという話が出ていました。

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以上、書きなぐりのハイパー抽象的な感想です。参加された方からすると、「そんなことになるの?」という感想になるかもしれませんが、ひとまずこの二日間で私が考えたことは以上です。

「これが私たちがやりたい科学のやり方だ」という科学のモードを作ってみせる運動に関わりつつ、その相互の翻訳や比較を行う俯瞰的な視座を持つこと。そしてそれがどのように展開しているのかを見渡しながら、できるだけ異なるモードの科学同士、あるいは科学の外のコミュニティとのあいだに対話可能な空間をつくること。それが、目いっぱい抽象的に言った場合の「メタサイエンス・コミュニケーター(たる私)」のこれからの役割なのだろうと思いました。