2026年10月、京都大学の橋本幸士氏(物理学)と谷口忠大氏(情報学)による論文 “Atom as an Agent: Emergent Order by Collective Predictive Coding”(arXiv:2610.36673)が公開されました。記号創発システム論で提案された集合的予測符号化(Collective Predictive Coding, CPC)を物理学に持ち込み、「原子をエージェントとみなすと、物理の秩序変数が自然に出てくる」ことを示そうとする論文です。
CPC についてはある程度知っていたものの、物理の側(スピン系、秩序変数、相転移)の理解があやふやななか、読み進めました。このノートでは、その対話をもとに、論文の内容を整理します。
1. 何を問う論文か
物理学には「創発」と呼ばれる現象がたくさんあります。ミクロな構成要素(原子)が集まると、個々の性質からは直接説明できないマクロな性質(磁石になる、など)が現れる。そのマクロな状態を一つの数で表すのが秩序変数です。
論文の出発点は、少しメタな視点です。著者らによれば、「説明できる」とは物理学者の共同体で共有された概念を使って語れることであり、秩序変数のような概念自体、物理学者どうしのコミュニケーションの中で生まれた言語だと言えます。それなら、言語の創発を説明する理論である CPC を使えば、物理の創発の仕組みにも迫れるのではないか。
“As our language emerges out of our human communications, physical macroscopic order parameter emerges out of communications among atoms — each atom is regarded as an agent who predicts each other’s behavior through inference.”(Abstract)人間の言語が人どうしのコミュニケーションから生まれるように、物理の秩序変数は原子どうしのコミュニケーションから生まれる。各原子は、推論を通じて互いのふるまいを予測するエージェントとみなされる。
著者らはこれを Atom-as-an-Agent(AaaA)原理と呼んでいます。
2. 準備①:スピン系と秩序変数
スピン・温度・相転移
論文が扱うのは、物理学で最も基本的な模型であるスピン系です。原子一つひとつを小さな磁石とみなし、その向きを上(+1)か下(−1)の二択に単純化します。これを格子状に並べたものがイジング模型です。
スピンどうしには二つの力が働きます。
- そろえようとする力:隣どうしが同じ向きだとエネルギーが低い
- 乱そうとする力:温度が高いと熱でバラバラに揺さぶられる
この綱引きの勝敗が入れ替わる温度が転移温度 Tcです。鉄の磁石を熱すると約770℃で磁石でなくなる、というのが身近な例です。
秩序変数は「そろい具合」のメーター
強磁性体の秩序変数は磁化 m = (1/N) Σsi です。全員が上向きなら +1、半々なら 0。下の図のように、高温では m = 0、Tc を下回ると 0 でない値をとります。つまり秩序変数は「どの相にいるか」を見分けるメーターで、Tc はメーターの針が 0 から動き出す温度です。
下:温度と磁化の大きさ |m|(2次元イジング模型の厳密解)。上:各温度での「地形」。横軸が m、谷の底が系の落ち着く状態。
同じことは「地形」でも表せます。高温では m = 0 に谷が一つ、低温では谷が左右二つに割れ、系はどちらか一方に落ちます(対称性の自発的破れ)。谷の形は、m の出現頻度 P(m) から Φ = −T log P として描けます。この地形がランダウ・ポテンシャルで、Sec.4 で再び登場します。
Tc より高温では秩序変数は 0、低温では 0 でない。地形で言えば、谷が一つから二つに割れる温度が Tc。秩序変数が分かれば Tc の探し方が分かり、Tc を境に秩序変数の値が変わる、という一対の関係です。
論文が扱う3つの例
論文は3つの例を扱っています(Abstract, Sec.1)。1つ目の例には、強磁性と反強磁性という2つの模型が含まれています。下の図は、低温での典型的な配置を模式的に描いたものです。
低温での典型的なスピン配置(模式図)。左の2つが例(i)、3つ目が例(ii)、4つ目が例(iii)。
例(i):2次元イジング模型(強磁性・反強磁性)
- 強磁性:隣と同じ向きを好む。低温で全体がそろう。秩序変数は磁化 m。2次元では厳密解があり、Tc = 2/ln(1+√2) ≈ 2.269。
- 反強磁性:隣と逆向きを好む。低温で市松模様。秩序変数は、一つおきに符号を反転して足したスタッガード磁化。Tc は強磁性と同じ。
例(ii):競合する2つのストライプ秩序をもつ2次元模型
- 上下左右の隣とは同じ向きを好むが、斜めの隣とは逆向きを好む(両立できない=フラストレーション)。低温では縦縞か横縞になる。秩序変数は2成分 (mx, my) が必要。
例(iii):SK 模型(全結合のスピングラス)
- 全員が全員と、ランダムな結合(正負どちらもある)をもつ。低温で凍結するが、模様はランダムなので m ≈ 0。そこで、同じ結合をもつ系を二つ独立に冷やし(レプリカ)、両者の一致度=レプリカ重なり q12 = (1/N)Σ si(1)si(2) を秩序変数とする。
どの例が論文のどこに出てくるかは、次のとおりです。読み進めるときに混乱しやすいので、先に整理しておきます。
| 例 | Sec.3(秩序変数の発見) | Sec.4(ポテンシャルと Tc) | Sec.5(原子どうしの会話) |
|---|---|---|---|
| (i) イジング模型 | 強磁性・反強磁性(3.3) | 強磁性・反強磁性 | 強磁性のみ |
| (ii) ストライプ | 3.4 | — | — |
| (iii) SK 模型 | 3.5 | — | — |
標準的な物理では、これらの秩序変数は、ハミルトニアン(エネルギーの式)とその対称性から人間が設計します。論文が問うのは、ハミルトニアンを一切教えずに、データだけからこれらが出てくるか、です。
3. 準備②:集合的予測符号化(CPC)
CPC は、谷口氏らが提案した記号創発の計算論的モデルです。論文は次の例で説明しています。
“suppose agents are humans, and all humans look at a single apple in reality. Depending on from which angle each human observes the apple, the picture of the apple may differ for each human observation. Then humans communicate to establish a shared symbol (a sign), such as the word ‘apple,’ for the object they are looking at.”(Sec.2)人々が同じリンゴを見ている。見る角度によって各人の見え方は違う。人々はコミュニケーションを通じて、見ているものを指す共有の記号(「リンゴ」という語)を確立する。
数理的には、各エージェントは自分の観測を共有変数 w から予測する確率モデルをもち、全員の予測をまとめて最もうまく説明できるように w と各自のモデルを学習します(変分自由エネルギーの最小化)。共有変数をエージェント間で分散的に決める手続きとして、メトロポリス・ヘイスティングス名付けゲーム(MHNG)があります。話し手が名前を提案し、聞き手が自分の観測に照らして受理・棄却する、というものです。
4. 原子をエージェントとみなす
AaaA は、この CPC の構図をスピン系に当てはめます。
| 標準的な CPC(記号創発) | AaaA | |
|---|---|---|
| エージェント | 人・ロボット | 格子点の原子(スピン)一つひとつ |
| 観測 | 画像などの豊かな知覚 | 自分のスピン si = ±1(SK模型では2レプリカの組) |
| 個体内の表象 z | あり(知覚カテゴリ) | なし。w から si を直接予測 |
| 共有変数 w | 離散的な記号(語) | 連続値 w ∈ ℝK |
| 生まれるもの | 語彙 | 秩序変数(論文の用語で “collective predictive order”) |
論文の結果を見ると、恣意性は座標の取り方に限られます。論文自身、「全体の符号は恣意的で、K > 1 では潜在軸の回転も恣意的」と述べています。実際、Sec.5 の学習では、w の符号(上向き=大きい w か小さい w か)がランダムな初期値によって決まります。
一方、どの集団パターン(一様/市松/縞)を表すかは、データによってほぼ一意に決まります。人間の言語のように、集団ごとに異なるカテゴリ体系が並存する、という意味での恣意性は、この設定には現れません。
はい。標準的な CPC では、各エージェントが豊かな観測を自分なりのカテゴリ z に圧縮してから、共有記号 w と結びつけます。AaaA では観測が 1 ビット(±1)しかないので、その中間層がありません。各原子が持つ「自分らしさ」は、w と自分のスピンを結びつけるパラメータ (bi, Wi) だけです。CPC を最も単純な形に縮めて物理に当てはめた構成、と言えます。
5. 原子が「観測」するもの:配置データ
ここで、何がデータなのかを確認しておきます。論文での入力は次のように定義されています。
“Let i = 1, …, N label agents and a = 1, …, M label observed configurations. The fixed input is the data set D = {S(a)}, S(a) = (s1(a), …, sN(a)), where si(a) is the local observation of agent i in configuration a.”(Sec.2.1, Eq.1)
配置(configuration)とは、ある一瞬の全スピンの向きを丸ごと記録したもの、いわばスピン系の写真1枚です。モンテカルロ・シミュレーションでスピン系を熱平衡で揺らがせ、一定間隔で写真を撮って保存します(例:“samples were saved every ten sweeps”, Sec.3.4)。強磁性の例では、32×32 = 1024 スピンの写真を、1.5〜3.5 の13温度で撮り、学習用に計3120枚使っています。
データは M 行 × N 列の ±1 の表。行が配置(写真)1枚、列が原子1つの観測記録。温度ラベルは CPC には渡さない。
“[Our training] supplies neither temperature labels nor coupling constants, lattice coordinates, or known order parameters. Only the site labels identify which observations belong to the same site across configurations.”(Sec.3.2)温度ラベル、結合定数、格子座標、既知の秩序変数はいずれも与えない。与えるのは、どの観測が同じサイトのものかを示すサイト番号だけ。
そして、学習の間、写真は動きません(“All observations are held fixed throughout the variation”, Sec.2.1)。ハミルトニアンは、写真を撮るときに使われただけです。
物理の世界では、どの原子も系全体の状態を見てはいません。原子が感じるのは隣のスピンだけです。ところが CPC の枠組みでは、全原子が「同じ瞬間の写真」の一部をそれぞれ観測していることになっていて、その情報を統合して共有変数を決めます。
つまり、実際には誰も全体を見ていないのに、あたかもみんなで同じものを見ているかのようにモデル化しているわけです。CPC のリンゴの例で言う「共同注意」にあたる状況を、データの行(同じ配置に属する観測)として外から与えています。
6. 共有変数 w と学習
生成モデル
論文の中心となる仮定は次の生成モデルです(Eq.2, 14)。
p(S, w) = p0(w) ∏i p(si | w), p(si | w) ∝ exp[ si(bi + Wi·w) ]p0(w) は標準正規分布。bi, Wi は原子ごとに自由に学習されるパラメータ。
「まず共有変数 w が一つ決まり、各原子のスピンはそれに条件づけられて独立に決まる」という物語です。原子どうしの相関は、すべて共通の w を通じて表されます。一様・市松・縞といった対称性は、一切課していません。
推論と学習
学習は、二つのステップを交互に繰り返します(EM アルゴリズム)。
- 推論:各配置について、全原子の尤度を掛け合わせて w の事後分布 p(w | S) ∝ p0(w) ∏i p(si | w) を求める。
- 学習:その分布のもとで、各原子が自分の (bi, Wi) を更新する。
学習された w の正体
学習後、配置 S に対する w の推定値 ŵ(事後平均)は、次の形になることが示されています(Eq.16–18)。
ŵ(S) = G( Σi Wi si ), G は単調増加関数
つまり、ŵ はスピンの重みつき和だけで決まります。Wi が全サイトで同じなら ŵ は磁化 m の関数に、符号が市松模様に交互するならスタッガード磁化の関数になります。どちらのパターンになるかは、データから学習されます。論文はこの ŵ を collective predictive order(集合的予測秩序)と呼んでいます。
原子は w を観測していません。観測するのは自分のスピンだけです。w は配置1枚ごとに一つ付く、全原子共通のラベルで、誰も直接観測しない潜在変数です。学習前は意味のない数ですが、学習後は「この配置は全体としてどういう状態か」を表すようになり、結果として ŵ ≈ G(m) になります。
w を決めるのは、Sec.3–4 では全原子の尤度を掛け合わせる中央の計算(論文の言う “super-agent”)、Sec.5 では原子どうしの提案と受理です。「各原子が w からスピンを予測する」というのは、あくまでモデル上の仮定です。
7. 論文の全体構成
論文は、二段階で AaaA を検証しています。
“we first identify collective variables and their thermodynamic properties using centralized CPC (Secs. 3 and 4), and then investigate how an ordering pattern can be learned through communication between individual sites (Sec. 5).”(Sec.1)まず中央集権的な CPC で集団変数とその熱力学的性質を特定し(Sec.3, 4)、次に個々のサイト間のコミュニケーションで秩序パターンが学習できるかを調べる(Sec.5)。
物理の世界がデータ(配置)を作り、CPC はそれを後から分析する。Sec.3–4 は中央集権的な推論、Sec.5 は原子どうしの会話による学習。
ここで混乱しやすいのは、「原子」が二つの意味で使われていることです。
- 物理の世界の原子:エネルギーを通じて隣と相互作用し、スピンの向きを変える。
- CPC のエージェントとしての原子:自分のスピンの記録を持ち、w について推論・会話する。
両者は同じサイト番号と同じスピンの値でつながっていますが、物理的な相互作用と CPC のコミュニケーションは別のプロセスです。CPC が動いている間、配置は固定されています。
8. 結果①:秩序変数が出てくる(Sec.3)
二つの判定基準
学習された ŵ が「秩序変数」と言えるかを、論文は二つの基準で判定しています(Sec.3.2)。
- 対応:ŵ は既知の秩序変数と(単調な変換を除いて)一致するか。
- 予測:スピンの 25% だけを見せて、残り 75% をどれだけ当てられるか。各サイトの「上向きの頻度」だけを使う予測と比べた改善量 ΔNLL で測る(1スピンあたりの上限は ln2 ≈ 0.693)。
二つ目の基準は、秩序を「一部を見れば残りを予測できる性質」として捉えるもので、CPC らしい部分です。
標準的な物理は、ハミルトニアンと対称性から秩序変数を設計する。AaaA は、配置データだけから共有変数を学習し、最後に既知の量と照合する。
例(i) 強磁性・反強磁性(Sec.3.3)
標準的な物理
全スピン反転の対称性が低温で破れる。強磁性では磁化 m、反強磁性ではスタッガード磁化が秩序変数。
AaaA の結果
- 学習された Wi は、強磁性では一様パターン、反強磁性では市松パターンと一致(重なり 0.99913 / 0.99916。逆のパターンとの重なりは 2.5×10−4 未満)。
- ŵ は m の5次多項式でよく近似できる(R² ≈ 0.994)。
- 予測の改善 ΔNLL は、T = 1.5 で約 0.651、Tc で 0.28、T = 3.5 ではほぼ 0(10−4 程度)。
高温でも ŵ は m の揺らぎを追いかけているが、他のスピンの予測にはほとんど役立たない、と論文は述べています。
例(ii) 二つのストライプ秩序(Sec.3.4)
標準的な物理
縦縞と横縞が同じエネルギーをもつため、秩序変数は2成分 (mx, my) が必要。
AaaA の結果
- 共有変数の次元を K = 1 と K = 2 で比べた。テスト用の配置全体に対する1スピンあたりの NLL は K = 1 で 0.516、K = 2 で 0.384。T = 1.2 での予測の改善 ΔNLL も K = 1 の 0.423 に対し K = 2 で 0.656 と、K = 2 が有利だった。
- 学習された重みの空間とストライプ空間の重なり O は K = 2 で 0.9963(K = 1 では最大値 0.5 に近い 0.4973)。
- ŵ の2成分を散布図にすると、±mx, ±my の4つの群に分かれる。
例(iii) スピングラスとレプリカ重なり(Sec.3.5)
標準的な物理
各スピンの凍結した向きはランダムなので、m では秩序を検出できない。二つのレプリカの一致度 q12 を秩序変数とする(Edwards–Anderson)。
AaaA の結果
- 各原子は、二つのレプリカでの自分のスピンの組 (s(1), s(2))(4状態)を観測する。
- 学習された重みを分解すると、98.55% が「二つのスピンの積 s(1)s(2)」の成分に集中した。
- 学習に使っていない結合の試料でも、ŵ と q12 の関係は R² = 0.992。T = 0.55 での予測の改善は ΔNLL = 0.129 で、第2レプリカのサイトをシャッフルすると改善は消える。
「レプリカを二つ並べて観測させる」という設定自体は、モデリング上の入力として人間が与えていると論文は明記しています。
9. 結果②:ポテンシャルと転移温度(Sec.4)
Sec.4 は、例(i)の強磁性・反強磁性のイジング模型だけを扱います。問いは、「AaaA が見つけた ŵ を使って、転移温度 Tc ≈ 2.269 を当てられるか」です。
いいえ。Sec.3 は 3 つの例すべてで秩序変数を見つける節、Sec.4 は例(i)のイジング模型(強磁性・反強磁性)だけに戻って、見つけた変数で熱力学ができるかを確かめる節です。スピングラスやストライプは出てきません。
手順は次のとおりです。
- 温度を混ぜたデータで「配置 → ŵ」の写像を一度だけ学習し、固定する。
- ここで初めて温度ラベルを使い、温度ごとのテスト用配置(各 800 枚)を ŵ に変換して、分布 P(ŵ) を作る。
- Φ = −T log P(ŵ) として「地形」(ランダウ・ポテンシャル)を描く。
- 地形を4次式でフィットし、2次の係数が負から正に変わる温度(=谷が二つから一つになる温度)T*(L) を求める。
結果として、低温では谷が二つ、加熱すると谷が中央に寄り、T = 2.55 では谷が一つになりました。ポテンシャルはほぼ左右対称(Φ(ŵ) ≈ Φ(−ŵ))で、論文はハミルトニアンの対称性を教えていないのに対称性が現れた、と強調しています。
なぜ一度で Tc が出ないのか
シミュレーションの系は有限の大きさです。小さい系では、Tc より少し高い温度でも全体がたまたまそろいやすく、谷が割れる温度 T*(L) が本当の Tc より高めに出ます。系を大きくするほどこのずれは小さくなるので、格子サイズ L = 12〜64 の結果を「無限に大きい系」まで延ばします(外挿)。
谷が一つになる温度 T*(L) の格子サイズ依存性(論文 Table 2 の値から作図)。L = 32, 48, 64 を直線 T*(L) = T*(∞) + c/L で外挿すると、強磁性で 2.256(95% 区間 [2.203, 2.300])。反強磁性は 2.258。
外挿の結果は強磁性で 2.256、反強磁性で 2.258 で、どちらも 95% 区間に厳密値 2.269 を含みます。
10. 結果③:原子どうしの会話(Sec.5)
Sec.3–4 の推論では、全原子の情報を集めて w を計算していました。論文はこれを「中央の計算機が存在するのに相当する」と述べ、Sec.5 でそれを取り除きます。原子どうしの会話(MHNG)だけで、同じ秩序パターンを学習できるかを試すのです。対象は例(i)のうち強磁性イジング模型だけで(L = 32)、データは Sec.3.3 と同じものです。
各原子がすること
Sec.5 で各原子が行う三つの行動。
- 話す(Eq.45):ランダムに選ばれた原子 k が、自分のスピンだけを根拠に w の候補 v を出す(v ∼ p0(v) p(sk | v))。
- 聞く(Eq.46–47):k の上下左右の4原子が、それぞれ受理確率 min(1, p(sj | v) / p(sj | w)) で判定する。新しい値のほうが自分のスピンをよく説明するなら必ず受け入れる。4人全員が受け入れたときだけ、共有の値が w から v に変わる。
- 学ぶ(Eq.49–50):会話の途中で記録した w の値を使い、各原子が自分の (bi, Wi) を更新する。「w が大きかった配置で、自分は実際に上を向いていたか?」を振り返るロジスティック回帰。
これを、ランダムな初期重み(符号もバラバラ)から 60 エポック繰り返します。
誰と話すのか
左:物理の世界では、各スピンは隣とだけ結合している。中:Sec.3–4 のモデルでは、原子どうしは直接話さず、全員が w を介してつながる。右:Sec.5 では、話し手と隣の4人が会話するが、w は全員が参照する共通の値。
物理的には、イジング模型の各スピンは上下左右の4つと結合し、その局所的な「場」だけを感じます。全体の情報は、隣から隣へ鎖のように伝わります。
Sec.3–4 のモデルでは、原子どうしの直接のつながりはありません。全員が共有変数 w という一つのハブにつながる星形で、実際の格子の形は使っていません。
Sec.5 のモデルでは、話し手と隣の4人が会話します(論文は格子の隣接関係を通信に使うと明記)。ただし、やりとりされるのはスピンではなく w の候補です。また、4人が受理して書き換わった w は、系全体で共通の値として次の会話に引き継がれます。
結果
- 学習された重み Wi と一様パターンとの重なりは、初期の 0.010 から 60 エポック後に 0.9997 まで上がった。他の8回の試行でも 0.9997 程度。
- 学習後、各原子が自分のスピンだけから w を推測し、それを全原子で平均した値は、磁化 m と相関係数 0.9999996 で一致した。
“Starting from random weights, these exchanges produce a common variable that represents ferromagnetic order. The variable is shared across the system, while proposal, acceptance, and parameter updates are assigned to individual sites.”(Sec.5.3)ランダムな重みから出発して、こうしたやりとりが強磁性秩序を表す共通の変数を生み出す。その変数は系全体で共有され、提案・受理・パラメータ更新は個々のサイトが担う。
11. 論文自身が述べている限定
論文の中で、著者ら自身が次の点を明記しています。
- モデルの形(局所予測モデルの族、潜在次元の候補など)は人間が選んでいる。ストライプでの「K = 2 が必要」という結論は、Eq.14 の線形な局所場モデルの範囲内のもの(脚注6)。
- スピングラスで二つのレプリカを観測させるのは、モデリング上の入力(Sec.3.5)。
- Sec.4 のポテンシャル構成では温度ラベルを使っている。また、ポテンシャルの形は座標の非線形変換によって変わり、極小の数さえ変わり得る(Eq.38)。
- Sec.5 の4近傍の会話が生む w の分布は、中央集権的な推論の事後分布とは一般に一致しない。示したのは、同じ秩序パターンが学習されること(脚注14)。
- Sec.5 でも、正則化の強さを選ぶモデル選択には中央集権的な計算を使っている。
- 今後の課題として、量子系やトポロジカル相への拡張、ホログラフィーにおける時空の創発、通信の構造(何人で判定するか、誰と話すか)の一般化を挙げている。
12. 読み終えて残った問い
最後に、読みながら浮かんだ問いを、答えを出さずに書き留めておきます。
- 原子を「エージェント」と呼ぶことは、どこまで比喩で、どこから実質的な主張なのか。特に、中央の計算を使う Sec.3–4 と、会話を使う Sec.5 とで、その意味はどう違うのか。
- 物理の世界で原子が隣と相互作用することと、CPC で原子が隣と会話することは、どう関係するのか(あるいはしないのか)。
- CPC の「記号の恣意性」に相当するものは、物理の秩序変数のどこに現れうるのか。
- 「同じ瞬間を見ている」という対応づけ(共同注意)を外から与えずに、原子たち自身が獲得することはできるのか。
参考文献:Koji Hashimoto and Tadahiro Taniguchi, “Atom as an Agent: Emergent Order by Collective Predictive Coding,” arXiv:2610.36673 [cond-mat.dis-nn] (2026). https://arxiv.org/abs/2610.36673