この数週間、政府が繰り出す感染症対策について、いろいろな人がいろいろな意見を言っている。(政府の対応はあまりに場当たり的ではないか? いや、いまは打てる手をすべて打つべきときなんだ。医学的根拠はあるのか? 根拠がなくても、リーダーは決断しなくてはいけないんだ。経済的影響のことはどう考えるの?…etc)

ある人は、自分や家族が感染することを心配する。別の人はもう少し俯瞰して、地域全体の医療のキャパシティを気にかける。健康面よりも、自身の仕事や学業の先行きを不安視する人も多い。その集成としての経済全体への悪影響を懸念する人も。そもそも政府が今回のような仕方で人々の生活に介入すること自体を疑問視する人もいれば、そこに至る政治的なプロセスを批判する人もいる。

私たちの多くはいま、何かを心配し、何かに怒っている。しかしその対象・矛先が何であるかは、人によってかなり違う。Twitterを見ていて、「この人がこういう考えなんだ」と驚いたりもする。ここには、何か学びの機会があると感じる。

なぜ意見や反応が分かれるのだろう? 普通に答えるならば、「事実認識と価値観のいずれか、もしくはその両方が違うから」となるだろう。

まず、感染症の疫学的な性質、危険性、現状の拡散度、医療制度のキャパシティなどに関する「事実認識」の問題がある。どのように事態を把握しているかによって、どんな対応が妥当と考えるかは違ってくる。丁寧な科学コミュニケーションが必要となるゆえんだ。もう一つ、「価値観」の違いも効いてくる。事実認識が同じ二人でも、どの程度自身の感染リスクを恐れるか、その人がどんな社会・経済的な状況に置かれているか、普段からどんな政治的信条の持ち主かなどによって、意見は大きく違ってくるだろう。どのように事実を認識し、何に価値をおくかによって、何を心配し、何に批判の目を向けるかが変わる。こんなふうに、ひとまずは理解できそうだ。

だが、自分としては、もうちょっと深いレイヤーの多様性(あるいは分断)が浮き彫りになっているような気がしてならない。今回の感染症騒動をめぐる数々の言説であらわになったのは、人々の「現実観」そのものではないだろうか。

「現実観」とは要するに、「自分が生きる世界がどんな場所だと考えるか」ということ。先ほど、「事実認識」と「価値観」という二分法を持ち出したが、現実観には両方が絡む。事実認識や価値観が現実観をつくるし、逆に歩い人がもつ現実観が、その人の事実認識や価値観を生み出す。現実観は、社会がどんな場所であってほしいかだけでなく、自分がどう生きて死にたいかにも直結する。

「事実認識」と「価値観」だけの問題であれば、まずは「正しい」事実を皆で共有し、そのあと価値観を政治的にすり合わせていくという2段階で(少なくても理想的には)誰にとっても「正しい対応」が実現される。しかし、現実観の分岐はそんな簡単には埋まらない。そもそも言葉が通じないかもしれない。それほどの違いだからこそ、自分の現実観を思い切って変えてみる価値もあるかもしれない。

もちろん、実際に感染し重症化してしまった人、急に仕事と育児の負担が倍増した人、人生を左右する重要な予定が狂ってしまった人には、現実観も何もなく、すぐに救いの手が差し伸べられるべきだろう。しかし、それ以外の、多少なりとも考える余裕を持つ私たちは、自らの「現実観」を振り返り、それをアップデートする余地について思いをいたす機会にしてもいいのかもしれない。

…そんなこんなで、「何やら高尚なもの」と思っていた哲学者たちの「現実とは何か」をめぐる議論が、ここ数週間、にわかに身近で切実なものに思えてきている。

われわれは、何らかの「自明」と見なされている現実観にもとづいて現実を見ているのであり、それがわれわれ自身のものの見方の「枠組み」を成してしまっている。(…)われわれが「現実」というものをどう理解するかということが、われわれの「ものの見方」だけでなく、それにもとづいて行われるわれわれの行為全般、ひいては生き方に至るまでを左右しているのである。――西郷・田口(2019)『〈現実〉とは何か』p.12

現実を規定する絶対的な枠組みなどは存在しない。私たちの現実は思考の枠組みとともにうつろう不確定なものにすぎない。現実に相対し、それを把握しよう、生き抜こうとする人間の志向そのものが論理を生み、その論理によって現実が規定される。――宮野真生子(2019)『出逢いのあわい』p.164